私にとって、刀を作るという行為は修行である。
修行というと、歯を食いしばって耐えるようなものというイメージを抱く人もいるかもしれないが、そればかりが修行なのではなく、修行とは基本的には繊細に自分を見つめる行為であると認識している。
繊細に見つめることによって、より繊細に捉えられるようになっていく。
そのサイクルを繰り返していくことが修行の重要な軸の一つだと私は思っている。
私の中には、刀鍛冶になる前から、修行というものに対する根源的な希求があった。
それは当初、刀を作ることとは別に存在していた。
ただ、何にせよ修行というものが、刀を作る上でも役に立つだろうとは思っていた。
確かに役には立った。
が、しかし、むしろ実際には、修行というものの枠組みが拡大し、私にとっての刀作りは修行というものの枠組みの中に取り込まれてしまったと言える。
刀を作る中で見えて来るもの。
鐵の性(さが)。
鍛冶仕事の原理。
美という名の精妙な調和。
それらを出来るだけ繊細に捉えようとすることは、間違いなく私にとって重要な修行になっている。